Endless Good Times
ISBN 978-1-4523-3308-3
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Endless Good Time
『チキンタンメンと髪留め』
朝の満員電車。周りの人と肩やひじが当たる。取り立てていつもと変わらない状況。ぼくの前に背中を向けて前に立っている女の子もぼくと同様に窮屈そうに見える。その子が右肩から下げているカバンの口が半分開いていた。
ぼくとしては、あえて覗く気もなかったが、そのカバンの中にあるインスタント麺のカップが何となく目につく。それはチキンタンメンのインスタントカップ。
−美味しそうじゃん。
自分がインスタントカップにお湯を注ぐことを想像していると、電車は橋にかかるところで強く左右に揺れた。
その揺れは、その子のカバンの残り半分を留めていたであろう髪留めのクリップを、ぼくの足元に落とす。
それなりの勢いを持ってカバンの口は開く。揺れそして肩に伝わるカバンの感触が、彼女にカバンの異変を気づかせる。そして、彼女は何がどうなったのかわからないまま、開いたカバンの口をなんとか閉じようとしている。
ぼくの足下に落ちたクリップはプラスチック製。そう見える。それは満員電車の中、そのうち誰かに踏まれて割れることだろう。
無意識に手を伸ばしてクリップを拾うぼくに自分が内心驚いた。
拾い上げたクリップを持った手で、ぼくはその子の肩をとんとん。
「これ、ちがいますか」
「あっすみません」
受け取る彼女。そっけない。当然だろう。
でもぼくにとっては一日一膳につながる行動、自己満足としてもけっこう納得できた行動。そう、ぼくにとってきっと今日はよい日になるはず。
橋を渡り終えると、そこは他線への接続をする駅。電車は止まった。
電車のドアが開くと、乗り換えのために降りようとドアに向う彼女から笑顔の一言がぼくに届いた。
「どうもありがとうございました」
「どうも」
ぼくも笑顔で返答。
やっぱりいい日だ。
そうして今日ははじまった。
この彼女があの日のきみ。たぶん、きっと。
こんなすれ違いがあったことも、きみに確認しないまま、きみがいなくなってはじめて思い出す。
ぼくは少しだけ、胸に甘酸っぱいものを感じた。
『ありがとう』
ぼくがつかまろうとした吊革には、一瞬早く機敏そうな肌の色の右手が伸びていた。
この急停車でつかまるものがなくなったぼくは、あわてて膝を曲げ、バランスをとろうとする。
それでも急停車のGは、容赦なくぼくの傾いたカラダを進行方向に押しつける。
「すみません」
ぼくを意図もせず支えることになった機敏そうな右手の女性に小声で伝える。
その右手と同様、彼女はシャープな輪郭の、そして夏を先取りしたような肌の色を
していた。
「大丈夫ですか」
満員電車の中、彼女の唇がそう動いた。
ぼくは体勢を立て直し、もう一度彼女に視線を戻す。
彼女がつかんでいたはずの吊革はフリーとなり、ぼくの前で優しく軽く揺れている。
「どうぞ」
左手でとなりの吊革をつかみ直した彼女の仕草は、きみに似ている気がした。
「少しも好きじゃないわ」
「つきあえばすぐに分かるよ」
ぼくは当時の口説き文句を思い出した。
そしていつしかきみは猫のように寝ころび月をみて、
「ねぇ甘いもの食べたいでしょ」と、よく口にするようになった。
最後の日は、襟もとの大きく開いた七分袖の赤のTシャツを着ていたっけ。
そんな思い出もいつしか忘れていく。
そうだ、そのときのぼくの決り文句は、
「きみだろ、食べたいのは」だったはずだ。
そして笑顔で話すふたりが確かにそこにいた。
「ありがとう」
ぼくは吊革をゆずってくれた彼女にお礼を言った。
でもその言葉はあのときのきみへ伝えることのできなかった言葉、それを今ようやく言えたような気がした。
かつてのきみに言いたくて、でも伝えられなかった言葉、大切な思い出と一緒にそれすら忘れはじめたぼくがここにいる。
『最近、きみとドライブに出ていない』
きみと一緒に車で近場のショッピングには毎週のように行っている。
でも、もう少し遠出、はしていない。ショッピングはドライブとは言えないだろう。
「どうしてだろうね」
「そう言えばそうね」
春に向かう季節の中で、今日の陽射しはぼくにシャツのそでをまくらせる。
ハンドルを持つぼくは、ドアポケットからサングラスを取り出した。
カーラジオは、JWAVEからケツメイシの桜を聞かせてくれる。
信号待ちから開放されたぼくの車は、その先で歩道へと乗り上げる。
「出かける用意しときなよ」
「じゃぁ、珈琲をポットに移し替えとくね」
携帯電話を助手席に置くと、太陽に包まれた早咲きの桜が見えた。
さてと、きみをどこへ連れていこうか。
『桜はね』
冷たい春の小雨。路面では地上におりた無数の桜の花びらがその小道を覆い尽くしている。
咳き込んでいるきみにせき止めを買いに行くまでの散歩道。
暖かくなってきみと散歩に出れるころには、桜の木々はみな葉桜になっているんだろうね。
そんな思いに背中を押され、ポケットから取り出したデジタルカメラで写真を一枚。
ピピー。
きみはよろこんでくれるかな。
『bar N43 on Our Memorial Day』
bar N43 で飲んでいると、きみの声をぼくのtalbyが受けとめた。
N43 のパノラマなウィンドーの向こうに広がる静かな夜景と、店内に囁くように聞こえる気だるいJAZZ、そしてダイオードの灯だけで着信を知らせる携帯電話talby。そんな場所へきみの声が夜空をこえて、届いてくる。
「今夜だよ、ちゃんと覚えてる?」
きみの明るい声は静かな店内に少しだけ伝わる。ぼくはtalbyを片手に店のドアを開け、外にでる。受話器にかかるぼくの息は白い。ゴールデンウィークも近いというのに、ここN43のある札幌は足下にまだ白い雪が残る。
「当然」
「でも、去年もそうだったけど、今年も今夜は別々ね」
「そんなカップルも、」
「好きよ」
きみの笑顔をN43のドア先から見える夜景に重ね、そっとtalbyをポケットにしまう。
ー来年の今日こそはきみのそばで、きみのくちびるとともに。
店内に戻ったぼくの目の前に運ばれてきたマティーニのグラスを軽く持ち上げ、また今年も去年と同じことを考えた。
『つり革につかまる』
帰宅途中の地下鉄の中、となりで吊革をつかんでいる彼女の指先はとても白かった。
きれいなつめのカタチをしている。CMでゆびのモデルをしているのかも知れない。そうぼくに思わせるその彼女の指先はつめの先まで白かった。
何をそんなに強く握っているのか。何が彼女にそうさせるのか。ぼくにはわからない。ただ何となく思うのは、きっと彼女が必要以上に強く吊革につかまっているのだろうということ。
地下鉄の駅と駅の間で鏡に変わる窓ガラスに、彼女の顔が映る。指先の形ほどではないが、どちらかといえば美人の部類。ツンとすました感じではなく、きっと笑顔になると優しそうな美人。それが窓ガラスに映った彼女に対するぼくの印象だった。
でも、そんな顔立ちよりも、ぼくには指の先っぽまで白くなるほど力を入れているその右手がとても気にかかる。
−どうしてですか。
−これが自然なの。
彼女に代わって、いないはずのきみが窓ガラス越しにぼくに答える。
そうかもしれない。そうだよね、きっとそうだ。
ぼくはきみの言葉に一人納得し、電車を降りた。
『きみとのbar』
どうしたの
どうもしないよ
静かだよ、何か話して
そうだなぁ
わたしを見ていないっ
見てるよ
見てないわ
カラン
マスター、もう1杯だけ
飲みすぎじゃない
いいんだ
よくないわ、もう十分飲んだでしょ
もうちょっとだけ
どうしてそうなのかな
昔から
知らないわ
きみの知らない昔から
そんな言い方、さみしいよ
さみしい、か
さみしいのはわたし
うん
、、、うんじゃない
カラン
まだ飲むの、、、
次で終わりにするよ
、、、知ってるわよ
何を
飲むといろんなこと思い出すんでしょ、教えてよ
おいしいね
あたりまえでしょ。隣にいるのはわたしなんだよ
やっぱりちょっと怒った顔もいいなぁ
えっ
前に見たきみのそんな顔を思い出してた
ふ〜ん、そう、、、マスター、わたしにもおかわりください
『彼女の薬指』
「おひさしぶり」
そう言って駅のホームで声をかけてきたきみのかつての同僚は、大きく手を振ってぼくに向って歩いてきた。少し足早でとても元気があふれていた。そんな彼女をみた瞬間、分の悪いことが脳裏をよぎった。
−あっ、飲みに行く約束、果たしてないや。
ぼくが彼女に気づいたので、振ることをやめた彼女のすべての指先には透明なマニュキアが光っていた。その透明の上に小さな三色の花が咲いている。明るいブルー、明るいエンジ色、そして明るいグレー。グレーまでも明るい。それら三色の花はそれぞれ五枚の花びらで構成されている。明るい色の明るい花びら、その指先の花にも負けない彼女の明るい笑顔は以前とまったく変わらず、きみがいたころと同じように相変わらずぼくを和ませる。
分が悪いはずなのに、なんとなくほっとして話していると、彼女の左手の薬指にあるはずの指輪が見当たらないことに気がついた。気になりだすと他のところにも視線が行き、心なしか手首が細くなっている気もする。それはぼくの気のせいなのか、もとからそうだったのか、ついには思い出せない自分に気づいた。
そうこうしていると、互いのホームに逆方向の電車が到着した。
−じゃ、またな。
−連絡ちょうだいね、約束してたよね。
そう言って、彼女はグラスを持ち上げる仕草をし、反対側の電車に乗り込んだ。彼女は忘れていなかったんだ。それともぼくと一緒で、この場で思い出しのか、それはぼくには分からない。
ただぼくは、車窓ごしに手を振るそんな彼女の名前を、実はまだ思い出せずにいた。あんなに仲よかったのに、きみがいないと彼女の名前すらまともに思い出せない。
−まいったなぁ。
そして、ぼくの電車も動き始めた。
『赤いバッグ』
地下鉄の乗り継ぎの通路をきみとふたりして歩いていると、となりを早足で抜いていく女性がいた。
「あっあれ!」
すばやく指さす今日のきみの指先には、うすいブルーのベースにそれより少しだけ濃い空色の星がプロットされている。
きみはその指でぼくの右肩をゆする。
「あれよ、あれ」
「???」
「目をつけてたのよねぇ。みんな買っちゃうのかな」
何のことだろう。そんな気持ちできみの目をのぞき込むぼくに気づいて、きみが少し早口で言葉を続ける。
「わたしの誕生日まで待っていると売り切れちゃうよね。ね、ね」
きみが指さす前方に行ってしまった女性の右手にバッグが見える。もう十分離れすぎている、でも、それだけは確認できる。
ぼくはもう一度、きみの目をのぞきこむ。
おねだりするまなざしで、きみもぼくの目をのぞきこむ。
「ねっこれからあの赤いバック、見に行かない?」
「これから?」
言い出したら聞かないきみは、たしかにもう少しだけ歩調を早めて、地下鉄から上がる階段へとぼくの右腕を引っ張った。
−大丈夫、まだなくなりはしないよ。
ぼくはきみの後ろ髪にそうつぶやいた。
『ピンクのかさ』
午後からの雨、お天気キャスターのおねえさんは降り出したら明日いっぱい続くと言っていた。
今夜のきみは残業の予定。残業が終わってきみが会社を出る頃には、雨は本降りになっていることだろう。
オフを理由にきみから頼まれた買い物の帰り道、くるまのフロントガラスのワイパーが降り出した大粒の雨を勢いよくはじく。本来ならもう少し明るいはずのこの夕方の時間、重い雨雲が空を覆いつくし、運転席から見える街はほとんど夜のよう。
赤信号がくるまを止める。
停車とともにワイパーの雨粒を振り払う間隔が延び、激しい雨に視界が遮られる。
その間隔のすき間から、前方のマンション上層階の窓に明かりが灯るのが見えた。
「おっ、帰ってきてんじゃん」
同時に稲光が目に刺さる。
きみの大好きな光沢のあるピンクのかさ、ほんとうに薄いピンク色、そしてその細いかさを持つきみの細いゆび、そんなことを思い出した。あのピンクのかさは、こんな大粒の雨と雷からもきみを守ってくれたのかな、きみを想像してみる。
−びしょびしょになったんだからぁ。
半泣きの笑い顔をしたきみのそんな言葉が、カーラジオから聞こえてくる気がした。
「もうすぐ着くよ」
信号が変わる。ぼくはアクセルを踏み込んだ。
『STAND BY YOURSIDE』
インターフォンからきみの声が聞こえた。
「今、開けるからね」
ぼくはきみのマンションの鍵を持っていない。あえて渡そうとも受け取ろうともしないぼくらの関係。
上層階でエレベータを降り、ぼくはきみの部屋の前に立つ。
ドアは赤い色。それは一歩間違えばきつすぎるほどに鮮明な赤い色。廊下つたいの左右の部屋のドアは、右がオーシャンブルー、左がとっても新鮮な卵黄を思わせる黄色。これらはこのマンションオーナーの趣味らしい、ときみは言っていた。
「びしょびしょになったんだからぁ」
待ちかねたように勢いよく開くドア。
−やっぱりね。
ぼくがくるまの中で想像したとおりの台詞を、きみが口にする。
玄関口なのに、ズボンも履いていなくTシャツを羽織っただけの姿のきみは、ブルーのバスタオルを頭からかけていた。
「残業は?」
「うん、作業が明日に延びたから急きょ中止」
そのせいでね、と濡れた髪の毛をバスタオルでもぞもぞと拭いているきみ。ピンクのかさは突然の大雨にその役割を十分に果たせなかったのだろう。
そんなぼくの思いより、乾ききっていない前髪の間から覗くきみの目は、どうもぼくの右手が気になるらしい。
−しょうがないなぁ。
「今日はぼくよりもこれだろ」
肩をすぼめ、片頬にえくぼを作り首をかしげるきみ。
「はい、どうぞ」
ぼくはそう言って、店員さんが雨に濡れないようにビニールをかけてくれた袋をそのままきみに手渡す。
「あったんだ?」
わかってるくせに、はやる気持ちを抑えながら、それでもきみはいつもより少しばかり急いでいるふうに、袋をそしてその中の箱を開けた。
「ほんとまだあったんだ。よかったぁ」
箱から取り出し、左腕にかけて見せるその赤いバッグは、残念ながらきみのセクシーなTシャツ姿なんてモノともしない。
すでにきみが手にしたときから、きみの感性と同化するように、そしてすでにきみの一部になっている。
「ありがとう」
赤いバッグを持ったままターンするきみの白いTシャツの背中には真っ赤な色で「STAND BY YOURSIDE」、そう大きくプリントされていた。
『サクランボのマーク』
きみは、山吹色のシステム手帳を何度となく確かめ、ときおりゴールドの細いボールペンで何かを書きこむ。ひととり書き終えると、陽射しの差し込むテーブルに手帳を静かに置いた。
珈琲をひとくちすする。
美味しい、ときみは目を細め、意味あり気に微笑んだ。
ぼくはそんなきみの言葉に気づかないふりをし、読みかけの雑誌にそっと目を落とす。
きみはもうひとくち珈琲をくちにする。
「ねっ、軽井沢行こうよ」
きみの右手がすっとぼくの雑誌を取り上げた。
その手の薬指にあるピンクの小さなバラの指輪が、きみの楽しい気持ちを物語っているように思える。
「今からかい」
逆光線の中、笑顔のきみが首を横に振る。
「秋になったらね。寒くならないうちに」
差し出されたきみのシステム手帳には、サクランボのマークが9月の週末にみっつほどついていた。
ぼくも珈琲をくちに運び、きみの書き込んだサクランボのマークを中指でつつく。
「いいよ。でも何でサクランボのマークなの」
「今、サクランボの季節でしょ。その頃に決めたっていうしるし」
そう言ってちょこんと舌を出すきみは、さっそく9月の軽井沢での予定をぼくに話し
始めた。
『聴きに来て、ね』
「フルートの発表会があるの」
きみのぼくに向けるまなざしは、そんなの既知のことでしょ、と物語っていた。突然の話題に、ぼくはさっきまで話していた赤いバッグの話とどうリンクするのか困惑した。
「だからね、一年間のスクールの成果を発表するんだよ」
ますます既知の事実だと、きみはテーブル越しに身を乗り出してくる。初耳、ぼくは苦笑いを浮かべるしか術はない。きみは首を横に振りながら、隣のイスに置いていた何やら小柄なショルダーケースに手を伸ばす。その黒い革のケースはまさにイカシタ女性を演出するのにふさわしい小物に見える。
そんなきみの後ろに、ぼくからはカフェの窓を通して力強く青々と茂った並木が見える。木々の間に差し込んでいる陽光は以前よりまぶしさを増している。
−初夏になったんだ。
「ねぇもしかしてサマーリサイタル?」
ぼくが尋ねる。
にっこり頷きながら、きみはショルダーケースのファスナーを開ける。中からはきれいに手入れされているフルートが顔を出してきた。
「聴きに来て、ね」
上目遣いにぼくを見るきみは、次の瞬間には背筋をちゃんと伸ばし、ぼくに演奏の姿勢をとって見せた。
「様になってるじゃん」
自然と言葉が口についたぼくに、きみの頬が少しピンクに染まった気がした。
『ピエロ』
ピエロがじっと立っていた。微動だにしない。
「動かないね」
「曲芸するだけがピエロじゃないでしょ」
きみとぼくは並んで公園のベンチに座っていた。木陰にあるそのベンチからはパノラマで海が見渡せる。
海を背にしているピエロまでの距離はぼくらから8メートル、まぁそんなところだろう。ピエロは50センチほどの踏み台の上に立っているから、ちょっとだけぼくらを見下ろしている。そのピエロは瞬きもしないし、視点の先はこちらからでは見て取れない。でもたぶん、ぼくらを見ている。
「動くかな」
「根比べだろうね」
ぼくらはふたりして、青く透き通る空と動かないピエロそして潮の香りのする公園の風を感じながら、ポップコーンをほうばっている。ぼくらと動かないピエロは互いに根負けすることなく、しばらく見つめ合っていた。
「動いちゃえばいいのに」
どのくらい見つめていたのだろう、きみの手がぼくの左手の薬指をぐっと強くつかんだ。
「ぼくらの根負け?」
−ううん、そうじゃない。
きみはつかんだぼくの薬指を引っ張ってベンチから立ち上がり、動かないピエロに
近づいた。
ピエロは突然のぼくらの行動にも微動だにせず、でも、視線は変わらず確実にきみに向いていた。
きみはピエロの目の前まで行くと、赤いバッグからハンカチを取り出し、ピエロのポケットにそっと入れた。
「やっぱりちょっとは動いて欲しいな」
その言葉に動かないはずのピエロの視線が優しくなった。そして心なしか口元が微笑んでいる気がした。
きみはもう一度ピエロを見上げると、ぼくの薬指から手を放し、微笑んでいるピエロに小さく手を振った。
「またね。よかったら使って」
確かに夏の陽射しが微笑んでいるピエロを照りつけている。
そんなきみを見ていると、ぼくの方こそ動かないピエロになってみたくなる。
「ねぇお茶しよっ」
きみはまたぼくの薬指を右手でしっかりとつかんだ。
今度はピエロの方がほくをうらやましがっている、ぼくはそんな気がし、なぜだか少しほっとした。
『最初の一枚』
最初の一枚と最高の一枚。あるカメラ本で写真について、こんな言葉を目にしたことが
ある。以来、この言葉はぼくの脳裏から離れない。最高の一枚は都度更新されるだろうし、
更新できればいい。でも最初の一枚は先にも後にもそれしかない。そんな意味だった。だから最初の一枚は思い出に残るものが撮れればいいなといつもぼくは思っている。
リペアから戻って来たおやじの形見のカメラにフィルムをセットする。ファインダーに目を着ける。シーリングファン、リビングのグリーン、ドアノブ、思い出の写真、この前買った
靴。一通り部屋中にピントを合わせてみる。でも、いつもの自分のカメラで軽くシャッターを押す感覚、それを感じない。
じゃあ、と言うことで、ガラス戸を開けてバルコニーに被写体を求めてみる。アガパンサ
ス、蘇鉄、ローズマリーそしてオリーブ、やっぱりどれも今日はしっくりこない。それらは戻ってきたこのカメラの最初の一枚としてはインパクトに欠ける。メーカも難色を示していたこのカメラの修理、せっかくリペアできたんだから、そんな気持ちがぼくの中で空回りしているのか。
バルコニーで視点を落とし足下を見ると、自分の影の色が濃いことに気づく。陽射しが強くなったんだ。
バルコニーに放置している木製のテーブルにカメラを置き、ぼくはイスに腰掛ける。ゆっくりと視線の先を楽しんでいると、前方の森林公園の森の緑も濃くなってきているのがわかる。もう数週間もすれば、もくもくとした緑がここからでも見て取れるだろう。
夏はそこまで来ている。
もう一度カメラを手に取ってみる。
今度はファインダーを覗かず、そのボディ全体に目をやる。
するとリペアに出す前まで気づかなかった細かいことに気がつく。
小さいけれど角の塗装ははがれている。
シリアルナンバーの刻印も渋い。
−144023、数字だけで管理できていたんだ。
最近の製品ははじめからアルファベットも使っていると言うのに。
不思議な感覚がぼくを包み込む。このカメラをこう持って、こう覗いて。
ぼくを笑顔で撮っていたおやじのやり方、そうか、こう構えていたっけ。
最初の一枚、おやじはこのカメラで何を撮ったのだろう。物じゃなく人物、きっとおやじのことだ、お袋なんだろうな。
うん、ぼくもそうしよう。
今週末のぼくの誕生日まで待って、最初の一枚は、ぼくをお祝いしてくれるきみの写真を撮ることにしよう。
『きみ』
小学校のころ、真っ赤なワンピースを着て、いつもぼくのそばにいてくれた先生がいた。その先生は雲梯にぶら下がるぼくを支えてくれた。そして、上り棒の下で心配声で応援してくれた。
どうして今ごろ、急にあの先生のことを思い出したのだろう。そんな思いと、食器を片づけるきみを重ねながらを見ていた。
きみは食器の後片づけが一息つくと、珈琲か紅茶か尋ねてきた。
いつもなら、どんな夜更けでもぼくを呼び出すきみが、今夜は自分からぼくのこの部屋へやってきた。
いつもなら、ぼくの入れた珈琲を飲みたがるきみが、今夜は自ら進んで豆挽きからやっている。
先週、ぼくはきみとの時間をとれなかったね。ちょっと反省している。そして、きみは来週末のぼくの誕生日には一緒にいれないからと、今ここにいる。
そんなきみを見ているだけなのに、あの頃の、すっかり思い出すこともなかった先生の記憶が蘇る。
そう言えば、何をやるにも弱気なぼくに、あの先生はうしろからぼくを抱きかかえ言ってくれてたっけ。
「大丈夫よ、先生が応援してるから」
きみもきっとそうなんだろう、きっとぼくを応援してくれている。
昼間手入れをしていたカメラを取り出し、そのファインダー越しに珈琲を入れるきみをみつめる。
「やめてよ、はずかしいから」
「大丈夫、見ているだけだよ」
きみが入れてくれた珈琲は、ぼくのより少しばかり苦かった。
「どう」
「きみの味だね。いい味だ」
きみはうれしそうに、はにかんだ。
夜明け前、目を覚ましたぼくのとなりにいるきみは、猫のように丸くなって寝息を立てている。
−うん、ぼくもきみを応援してるよ。
カーテンのすき間から差し込んでいる月明かりが、きみの横顔を優しく映し出していた。
『雨があがりますように』
「雨があがりますように」
受話器の先で、きみがそうつぶやていた。
「おはよ」何くわぬきみ。
「さっきのは何?」気になるぼく。
「電話が来ますようにって」
「いや、そのまえ」
「雨、まだ降ってるね」
確かにかすかに雨音がガラス越しに聞こえる。まだ上がっていないんだ。
「電話、待ってた?」
「だって、酔っ払いさんをわたしからの電話のベルで起こしちゃ悪いでしょ」
待っていたと、大きく頷くきみの仕草が電話越しに見える。
ぼくは受話器を片手に冷蔵庫からペリエを取り出し、渇いたのどをちょっとだけ潤す。
「ほんとはね、待ってたんだよ、電話が来ますようにって」
素直に気持ちをぼくに打ち明けるきみ。
少し二日酔いのぼくは、少しだけ罪悪感を感じる。
でも、何も後ろめたいことはない、ただ、きみを待たせたみたいだね。
「あのね、今、ひとつだけ、願いがかなったの」
もうひとくち、ぼくはペリエを静かに口にする。
「電話、ありがと」
その声にきみの笑顔がとけこんでいる。
ぼくの部屋の窓から見える西の空が、少し明るくなってきた。
「大丈夫、もう少しこのまま話してたら、雨はあがるよ」
「うん、雨があがりますように」
今度ははっきりときみがそう言った。
ぼくは受話器を耳につけたまま、もう一度西の空に目をやった。
『I saw the butterfly in the bus』
真っ赤なバッグをひざに抱え、降りるバス停をうかがっているきみ。昨日いったんおさまった雨は今朝になってまた降り出した。雨粒がバスの窓ガラスに当たる。バスに乗り込んでからずっと雨雲をみていたきみが、一匹の蝶を指さした。紋白蝶、でも淡く黄色がかっている。その蝶もきみと一緒で、窓ガラス越しに外の雨模様をうかがっているよう。
「雨宿りしているだけだよね」
「そうだね」
「誰か降りたら、一緒に降りるのかな」
「雨だぜ」
「じゃあ、ここにいるの」
「一休みだよ」
「晴れたら、飛べるよね」
「飛べるさ」
羽根の淡い黄色が力強さを感じさせない。
きみはそんな蝶を気にしながらも、ときおりバッグの中を確認している。何を何回も確認しているのか、ぼくにはわかっている。
「大丈夫だよ」
「うん」
ぼくらが降りるバス停が近づいてきた。きみはバッグの中の診察券を取り出し、しっかりと握りしめた。
「まだ早いよね。バッグに戻すね」
病院前でバスが停まる。ぼくはきみの肩を抱きかかえ、一緒にシートから立ち上がる。淡い黄色の紋白蝶をもう一度見ようと振り返るぼくら。
「飛べるよね」
きみは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
『風の忠告』
ぼくはきみと待合室のソファーで順番を待っていた。バスの中で見つけた淡い黄色の
紋白蝶。その行方に自分の検査結果を重ねていたきみ。今、きみはいつもより強くぼくの右手の薬指をぎゅっと握っている。
どのくらいの時をぼくらは待ったのだろう。大した時間ではなかったかも知れない。でも、病院の廊下は現実以上に時を長く感じさせる。
「どうぞ」
ドアが少し開くと診察を終えた患者さんと入替わりに、薄いピンク色の制服を着た看護婦さんがきみに声をかけてきた。
「ご家族の方?」とぼくに尋ねる看護婦さん。
「いえ」と首を横に振るぼく。
「じゃ、診察が終わるまでもう少しここで待っててくださいね」
きみはそっとぼくの指を放し、大丈夫だからと頷きながらドアの向こうへ消えていった。
診察室のドアの閉まる音がいやにひんやりと耳に残った。そんなことはないのに、ぼくには病院の廊下中にその音が響き渡った気がした。
ひとり残された廊下から、風景を切り取ったような窓が見える。
外は、バスから降りたときにはまだやむ気配すらなかった雨がいつの間にか上がっている。初夏のおとずれを感じさせる太陽が、残っている雨雲の間から中庭の大木に、透明感のある陽射しを投げかけていた。そして、どこからか季節にはまだ少し早い蝉の声も耳に届く。不思議な感覚だった。
−あのこをひとりにしちゃだめだよ。きみもひとりでいちゃだめだよ。
まだ弱い蝉の声に聞き耳を立てていたぼくに、廊下を吹き抜ける風がそっと語りかけて
きた。そんな気がした。
−どうしてまだ気づかないの。早くお気づきよ。
風は何度も繰り返す。
その風のささやきをじゃまするように少しずつ蝉の声は大きくなってくる。もう耳をそばだてなくても蝉の声はいつの間にか、廊下中に響いている。そして窓の向こうの中庭の大木が大きく揺れた。目を凝らすと大木の幹の周りに無数の蝉がとまっている。大木のすべての表面を蝉が覆い尽くしている。大木が苦しそうにもがいている。
−目で見ちゃだめだよ。心を感じなきゃ。
風はそう言うと、ぼくの足下で軽く渦をまいて宙に消えた。
風が渦を巻いた場所にきみの靴が見えた。顔を上げると診察を終えたきみが戻っていた。
「ねぇ大丈夫?待ちくたびれちゃったでしょ」
きみが笑顔でそこに立っている。ぼくは少し安心した。
「いや、そんなことないよ。きみこそお疲れさま。ねぇ雨、あがったんだよ」
そのときぼくは、きみの笑顔の向こうにある動揺をまだ計り知れないでいた。
−ひとりにしちゃだめだよ。心を感じなきゃ。
風の言葉がぼくの耳に残っていた。
『影踏み』
きみの影をふめたなら、きみの心をひきとめておけますか。
『ぼくが行くよ』
透き通るような白い肌の彼女が隣のエスカレーターで上ってきた。視線はエスカレーターの先方、上のフロアを向いている。彼女の視界には、下りのエスカレーターに乗っているぼくはどうも入っていない。ぼくはすれ違いざまに振り返り、彼女の背中を追ってみる。彼女の白いスカートには手のひらサイズの真っ赤な無数のバラがプリントされていた。
「台風は好きよ」
あの夜、彼からぼくに紹介された彼女。台風のことを好きだと言っていたその彼女の名前もメルアドも聞いていない。
「だってイベントみたいなものでしょ。小さいときにお店の看板が飛んでいくのを見たこともあるわ」
後で彼に連絡先は確認すればいいだろうとぼくはたかをくくっていた。
「窓の外に台風が見えるのよ。わたしの育ったところってそんなところなの」
日常茶飯事の話題のように彼女は話を続けた。ぼくにない経験、ぼくとふたりっきりで彼女と話をするとどんな展開になるんだろう、邪な思いも入ったまま彼抜きでのシチュエーションを想像しながら彼女の話に耳を傾けた。
結局、その夜は最後まで彼女から連絡先を聞くこともせず、彼は彼で連絡先については後日口にすることもなかった。
ぼくは下りのエスカレーターが終わったところで、もう一度あの夜の彼女が乗っていた上りのエスカレーターに目をやる。彼女がエスカレーターから足を下ろした、ちょうどその瞬間だった。彼女は振り返り、ぼくに手を振った。白い肌にくっきりと浮かぶ真っ赤なルージュが寂しげな印象をぼくに与えた。
地下鉄のホームで電車を待つ間、彼の携帯にメールをしてみた。
−さっきあのときの彼女に会ったぜ
早いレスポンスだった。
−ありえない
−ちゃんと手を振ってくれたから間違いない
−だから、ありえない
−どうして
ちょうど電車がホームに到着し、いつものように乗り込むと当然、携帯電話のアンテナは圏外を表示した。
数週間前のこのメール以来、ぼくは彼には会っていない。と言うよりも会えていない。彼女について彼からそのとき以上の情報を知ることはできず、そんな彼から紹介されたあのときの彼女が今、ぼくのマンションのベランダにいる。
「最後にわたしが見た台風はね、わたしの家の裏山の木をね、全部なぎ倒したの」
彼女は西の空の満月をも隠そうとしている怪しい雲行きを見つめている。
「わたしは窓からその様子を見ていたの。わくわくしたわ」
雲行きから目を離さない彼女の前に、ぼくは自分のために入れたジントニックを差し
出した。
「でもね、次の瞬間わたしの家を泥に埋めて、なぎ倒された大木がその上を」
−もう話さなくてもいいよ。
「そのときから誰もわたしに会いに来てくれないのよねぇ。この前の彼なんて口ばっかり」
満月の明かりが雲に遮られると、彼女の透き通るような白い顔は青白く宙に浮いて見えた。
−今年の夏休みはこの彼女に会いに行こう。
いつしか闇に溶け込んで輪郭すらわからなくなった彼女に伝わるように、ぼくはジントニックのグラスを指でちょこんとはじいてみた。
「ぼくが会いに行くから」
蒸し暑い台風独特の風がベランダを通り抜けた。
『行ってくるね』
「魔除けじゃないじゃん」
「いいのよ、除けなくても。結果的に運が開ければ」
「だから開運の御守り?」
きみが買ってきた開運シールがぼくに手渡される。
「でも御守りってお札になってたり、金刺繍の布袋だったりしないか?」
あきれた仕草で首を横に振るきみ。
「そんなの無くすでしょう。シールだったらさ、携帯の裏っかわにでも貼っとけば無くさないし」
携帯を渡しなさいと右手を差し出すきみの手は、指は、細くて美しい。いい指の形をしているね。
「それに携帯使うたびに気になるでしょ。気になるってことが大事なのよ」
差し出されたぼくの携帯のどこにそのシールを貼ろうか、きみは思案のしどころって感じの表情をする。
「魔除けも開運も、何事も気持ちが大事なのっ」
今、空港でアイスキャラメルマキアートを飲んでいます。チェックインカウンターでは「おめでとうございます」と言われたよ。何でも今日、100人めのチェックインがぼくらしい。記念の携帯ストラップが手渡されたんだ。これも開運かな、では行ってきますね。留守番よろしく。
ぼくとしては長めのメール、きみにとってはきっと見当違いのメールかも。
「ほんとに行くんだ」
昨日の夜は、ぼくのマンションより空港に近いきみの部屋に泊まった。
「約束したしね」
「存在しない約束?」
きみは少しうつむき加減に小さい声で言った。
「そうかも知れないね。台風が好きだった彼女との約束。でも確かにぼくは会話もしたし」
「会話じゃなくて、話を聞いた」
ぼくの胸に顔をうずめるきみ。
「もっと言うと声を聞いた、うぅん、声の気配を感じただけかも知れないじゃない」
「そうかも知れないね。きみは正しくて、きっとそうなんだろうね」
−頭では、理屈ではわかっているつもりだよ。
「でもね」と、ぼく。
「うん、でもね」と、きみ。
そんなふたりの昨夜の会話。
最終案内を告げるアナウンスが空港のロビーに響く。
−もう行かなくっちゃ。
「メール送信!」
ぼくはきみへの想いを込めて、送信ボタンをぐっと押す。
−ちゃんと戻ってくるからさ。
きみがぼくの携帯に貼った開運シールに向かって、ぼくはきみへのひとことを口にする。
「心配いらないから」
朝、寝息を立てていたきみもそろそろ目を覚ます頃だろう。夕べ、ぼくとペアの開運シールを貼ったきみの携帯へ、メールと一緒にぼくの想いも届きますように。
『花火の音がふたりをつつむ』
「10年くらい前にさ、すごい台風がこの辺りを直撃したんだよね」
午前中遅くに実家に帰り着いたぼくは、台所から響くお袋の包丁の音を聞きながら、尋ねてみた。
「かなりの災害だったんだよね」
「どうしてあなたの田舎なの」
浴衣姿のきみはあの晩、不思議そうだった。
「台風が好きだった彼女がそう言ったの?」
まるで納得していない口調のきみは、裾をちょっと直しベランダのイスに腰掛ける。
「あなたがなんとなく思い込んでるだけでしょ」
それでもぼくを見つめるきみの目はしょうがないわね、と言っていた。
「連絡もなしにいきなり帰ってきて、ほんとよくわからない息子だねぇ」
香りのいいみそ汁とつやのいいほくほくのご飯がテーブルに出された。
「今更あんな忌まわしい事を思い出して、どうするの」
お袋はおかずを取りに台所に戻った。
「急に帰ってきても、ご馳走はないよ」
そんなことを口にするが、一人暮らしのお袋の声は電話で話すよりも少しばかり明るく聞こえる。
「そうそう、今夜は花火大会だよ。家にいるんだろう」
数年ぶりにいきなり帰省したぼくの前に、焼き立ての鮭と自家製の梅干し、それと漬物が並んだ。
「田舎に台風が来たんだ。記録的な大きさのやつがさ」
ぼくはベランダから見える川向こうの花火をきみと一緒に眺めた。今夜はこの辺りの花火大会だ。
「そいつが近所の山の木を根こそぎなぎ倒して、数本の大木を山沿いの川まで一気に押し流したって訳」
大きな打ち上げ花火が夜空を飾った。最近の花火は形も色もカラフルになっている。
「10年前のことだし、当時も田舎にはいなくて、ニュースとお袋からの電話で知ったくらいかな」
そして、高く打ち上げられた花火は大きな音がお腹にまで響いてくる。
「あのときのことかい」
お袋は遅い朝食を取っているぼくの前に座り、食後にと梨をむき始めた。
「あんたはいなかったし、怖かったわよ」
やはりお袋のみそ汁は具がてんこ盛りだった。元気をつけろと言わんばかりだ。
「その後もあんたはしばらく帰ってこなかったしねぇ」
今更ながら、ばつが悪かった。
「仕事もほどほどにしなさい」
お袋は笑って二個目の梨をむき始めた。
「うわー、きれい。やっぱり花火はこうじゃないと、本物じゃないとね」
きみがベランダのイスを寄せ、腕を組んできた。
白地に赤い金魚の浴衣、これも夏の風物詩。
「お腹に響いてくる、この音がいいのよねぇ。夏って感じよねぇ」
きみの浴衣姿を横目で見ながら、ぼくもそう思った。
「そして迫ってくるように広がる花火、きれいだよね」
大きな音がぼくらを包む。音と光の時間差が心地よい。
「話し相手も本物がいいよね」
ぼくらふたりは天空を彩るひとときの魔法に魅了された。
「あんたが幼稚園の時に好きだった子」
お袋がフルーツ皿に盛った梨をぼくに差し出す。
「あの子が唯一の被害者になったのよねぇ」
そう言って、自分がむいた梨をひとつ、口に頬張るお袋。
「他の人はみんな一命を取り止めたって言うのにね」
ぼくの記憶が少しだけ蘇り、友だちの彼と一緒にお酒を飲んだ夜の彼女の表情を
思い出した。
遠くから今夜の花火大会を知らせる号砲が響いてきた。
『夢の記憶』
きみは夢を見ていたと言う。
「でも、本当は夢じゃなかったのかもね」
後できみは首を横に振りながら、ぼくにそう言った。
記憶ははっきりしている、でもそのときのきみの周りの情景は輪郭もおぼろげで、色もはっきりしていない。
深夜、きみが寝苦しくて目が覚めると、台風が好きだった彼女がベッドサイドに座っていた。重さもないのだろう、ベッドに体重がかかっている様子もない。その彼女はきみと目が合うと、ちょこりと頭を下げ、唐突に、でも静かにゆっくりと話し出した。この彼女のことだ、きみは何気にそう感じた。彼女の唇は動いていない、きっと心に直接語りかけているのだろう、妙に落ち着いて聞いているきみがいた。
「わたしみたいなもう誰も会いに来てくれない霊は、わたしだけじゃないの」
「あなたの彼氏は、誰しも持っている、心の片隅にいつしか無意識に追いやっていた思いに触れただけ」
「でも、だからと言って、あのひとが、あなたの大切なひとが、わたしとの約束を守らなかったとは全然思わない」
「会いに来ようとしてくれた。現実のあなたが躊躇して止めようとしても、そうしようとしたし、今まさにそうしている」
そして
「ごめんね。心配かけて」
と彼女は言葉を締めくくった。
ゆっくりとしたしゃべり方でも、確かにここで一息ついたのが、感じ取れた。そしてひとつひっかかる言葉がきみの心に残っていた。
−霊はわたしだけじゃない。
その言葉だけが、唯一きみを不安にさせた。
「ねぇ、もしかして、あのひとがあなたに会いに行っている場所は、あなたの場所じゃないのね」
台風が好きだった彼女は微動だにせず、じっときみをみつめている。
「あなただと思い込んで、ちがう霊に会いに行っているのね、そうなんでしょ」
きみの語気が少し強くなった。綺麗な姿勢で横に座っていた彼女は、少し間を置いて、小さく頷く。何となく申し訳なさそうな表情で。
「でも、わたしが間違いなくあなたのもとに送り届けるから。待ってて。心配ないから。約束する」
きみの記憶はここまでで、次に目が覚めたときにはすずめのさえずりが聞こえてきた。ベッドルームの窓は半分開き、白いレースのカーテンの揺れが静かな夏の朝を演出している。せみ時雨もまだ始まらない時間だった。
「あの彼女はわたしとの約束を守ったみたいね」
少しだけひんやりとした両手で、きみはぼくの頬をやさしく包んだ。
−キスして。
ちょっと不安げなまなざしのきみが、声にならない言葉をぼくに投げかけた。
『わかってるよ』
その子の手は、ぼくの手をすり抜けた。
「つなげないわ」
「目をつぶろう」
すると瞳の奥にその子の透き通るような色白の手とぼくの手が浮かんできた。恐る恐る手を差し伸べるぼくら。瞳の中でそんなぼくらの手が触れ合ったとき、ぼくはほんのりとした温かさを感じた。
「ギュッと」
その子は不安そうな笑顔で、そうぼくに伝えてくる。ぼくはその子の不安を取り除こうと、温かさを感じるその手をギュッと握ってみた。でも瞳を閉じた世界では思うように力をこめられない。力をこめようとすればするほど、触れ合ったときの温かさとは裏腹に、ぬるりとしたひんやり感が伝わってくる。消え入りそうなになっている手の向こう側で、その子が寂しげに首を横に振っているのが見える。
ぼくはひんやりとしたその子の手を感じながら、力をこめるのをやめた。
「こうじゃないよね」
ぼくは心の中で、気持ちの中で、ギュッとつかむ意識をしてみた。するとぼくらの周りは急に明るくなり、その子の手はやはり温かく、そしてホッとしているその子の顔が感じ取れた。
「ありがとう」
「久しぶりだね」
「覚えててくれたんだ」
ぼくは少しの間、その子を見つめたあと、うつむき加減に首を横に振った。
「じゃあ、どういう風の吹き回し?」
「この前、ぼくんちに来たから」ぼくはこの言葉を飲み込んだ。
この子は台風の好きな彼女じゃない。だってこの子は台風が来ると怖がって布団に潜り込んでたじゃないか。今の今まで、そんなことさえ忘れていた自分が情けなかった。
その子はぼくをみつめていた。
「でもね、きっかけは何であれ、誰かが会いに来てくれるって」
ぼくはその子がもっとギュッと握ってきているのを感じた。
「どうしようもなく嬉しいよ。泣き出しちゃいたいくらい、嬉しいよ」
その子は少しばかり震えている。その震えがぼくの心に痛かった。
「ここにずっといてくれるの?」
「ごめん、それはできない」
「へへ、うん、わかっているよ、それくらい」
「えっ」
「寂しくったって、わかってるよ。住んでる世界が違うってことくらい」
そのとき、ぼくは足元に絡みつくような霊気を感じた。
「それに、あなたの後ろにもうひとりの霊がいるもの。こんにちは」
きっと台風が好きだった彼女だな、ぼくはそう思った。ついてきていたのか、ぼくは少しバツの悪さを彼女に対して感じた。
そして、その子はそれ以上、ぼくに何も言葉をかけてこなかった。
どのくらい時間が経ったのだろう。きっとその間、ふたりの霊は触れ合っていたのだろう。ふたつの霊気がゆっくりやさしく絡み合うのを感じられたから。
「ありがとう」
急にその子の笑顔が辺り一面に咲いた気がした。足下の霊気が引いていくのも感じた。
「一番にわたしを思い出してくれて、ありがとう。ほんとにうれしかったんだからね」
山のふもとから遠くに、色鮮やかな打ち上げ花火が見えた。
「五尺玉が上がったんだってよ、すごいね、山の方からも見えただろ」
いきなりのぼくの帰省で戸惑っていたお袋も楽しんでいるふうだった。
「うん、きれいに見えたよ」
あれがきっとそうだったんだとぼくはなんとなく納得し、お袋にビールをついであげた。
その夜遅く、ぼくの携帯が鳴った。
「会えた?」
「うん、まぁ」
「よかったね。じゃあ気をつけて帰ってきてね」
「うん」
「来月は軽井沢行く約束だったでしょ」
きみは安心したようで、でも何度も何度も戻る日を確認してやっと電話を切った。台所ではお袋がきみへの土産にと手作りの漬物を詰めていた。
『夏の終わりに』
白い猫が勢いよく塀から飛び降りた。流れるような動きは柔らかい。その動きは、朝の透明な空気の中で鳴き始めた蝉の声を止めることもない。きみは飛び降りた白い猫の行き先を興味深げに見ていた。
「猫、飼おうかな」
留守番させるのがかわいそう、と今までペットは何一つ飼わなかったきみ。ひんやりとした早朝の公園のベンチで、きみは白い猫から視線を外さずに、猫を飼いたいと口にする。優雅な足取りで真向かいのベンチの下に入った白い猫は身繕いを始めた。
「わたしの癖とかをね、覚えさせるの」
きみはクスリと口元で笑い、言葉を続けた。
「そして、わたしのコピーになってもらうの」
白い猫はベンチの下で、もう飛ぶことのできない蝉を見つけたようだ。
「朝あなたが優しくわたしの名前を呼ぶと、その子があなたのシーツに潜り込んできて、あなたの鼻の頭をなめるのよ」
「ねっわたしみたいでしょ」
きみは微笑みながらいったんぼくの方を向き、また白い猫を見つめ直した。
七日目をすぎてまだ地上に思いを残す蝉を、白い猫は前足でじゃれている。時折大きな音を立てる蝉に、びくんと身構える。
「地面の中の七年間で何思ってたのかなぁ」
きみの視線は蝉に移り、ぽつりとつぶやく。
「出てきたら七日間って知ってて鳴いてたのかなぁ」
飛べない蝉はいきなり白い猫の手をすり抜け、小さな円を地面に描きながら、ベンチの下から飛び出してきた。白い猫はベンチの下で身構えたまま、じっと蝉を見つめ続ける。
ぼくらを含むそんな光景に、夏の終わりの朝日がゆっくりと照りつけ始めた。
『お粥』
「好きな音楽は」と今更ながらにきみが聞いてくる。
「知ってるよね」とぼくは答える。
きみは横になったまま、くすりと笑う。目を細め、ちっちゃなえくぼを作る。
−きみはね、ちょっとだけ笑うとえくぼができるんだよ、それも片えくぼがね。
知り合って間もない頃、きみにそんなことを伝えたのをぼくは思い出した。
「お粥つくろうか」
夏バテだろう、きみが倒れた。昨日、会社に行く途中の電車の中で急にめまいがしたと
言う。
「ねえ、あなたのiPodから好きな曲をかけてよ」
きみがまた片方の頬にえくぼをつくる。
ぼくは窓側に置いてあるポータブルなスピーカーにiPodをつないだ。きみもお気に入りだと言っていた14カラットソウルの甘いアカペラをかける。すると、秋風がそよりと白いカーテンを揺らした。
−具は梅干しと昆布かな。
えくぼをつくったまま寝息をたて始めてたきみ。
ぼくはえくぼのきみをそのままに、キッチンへと静かに足を運んだ。
『卸したての赤い靴』
そろそろサクランボの印をつけた週末がやってくる。
夏前のきみからの提案、秋の軽井沢、にうなずいてから、あっと言う間にこの週末を向える気がする。
でも、きみはまだ体調が完全ではないらしく、昨日も病院に寄ってから会社へ行ったと
いう。
「どう、調子は?」
「大丈夫だよ。あなたはちょっと大袈裟なのよ」
と、きみは笑いながらそっぽを向く。
−そうなのかも、いや、きっとそうだね、でもね。
あの日、バスのガラス窓にとまった蝶を見つめるきみの視線、病院の廊下で蝉時雨とともに聴いた風の声、その記憶がぼくを多少不安にさせる。
ふときみの足元に目を落とすと、テーブルの下にきみの真新しいスニーカーが目にはいる。赤のコンバース、ローカット。きみは軽く足首をクロスさせている。
「黒い靴ひもなんだ」
靴ひもだけはきみが自分で差し換えたようだ。嬉しそうに目を細めるきみが言葉を続ける。
「うん、ゴールドのラメ入り」
−少し遅めの夏休みに向けて、きみは靴を新調したんだね。
きっと買ってきた日の夜、きみは鼻歌混じりで靴ひもを差し換え、部屋中を軽やかな足取りで歩いてみたことだろう。キュッキュッ、フローリングに響くそんな靴音が聞こえて
きそうだ。きみの姿が目に浮かぶ。
−だったら当日か、向こうに着いてから履けばいいのに。
そうぼくが口にする前に、きみの唇が動いた。
「まったくの卸したてって何か気恥ずかしいじゃない。いかにも楽しみにしていましたって感じ」
−だって事実そうなんだから。
と言おうとするぼくの返答を待たずに、きみはさらりと言葉を続ける。
「これ食べ終わったらさ、夜風に当たりながら少し散歩しない?」
このお店からだと東京タワーを眺めながら、そのままタワーの足元まで散歩ができる。
ぼくは思った。真新しいスニーカーと今月からライティングが秋用になっている東京
タワー、いい組み合わせかもね。そして、フォークを右手に持ったまま、まっすぐぼくを見つめるきみに、大きく頷いた。
「うん、散歩しよ」
「うん」
きみはうれしそうに、残りのパスタにフォークをからめた。
『coffee』
「どんな子がいいかなぁ」
軽井沢のカフェでぼくの足下に背中をこすりつけてくるネコ。その白と銀色の毛並みにレンズを向けるぼくに、きみは尋ねてくる。きみはカフェのテーブルに両肘をついている。
「あなたのそばには、ほんとにどんなネコが似あうのかなぁって考えてみたの」
きみはいたずらっぽく微笑んだ。
「ほんとはもう決めてるけどね」
あの夏の終わりの公園の朝、七日間の使命を終えようとしていた蝉に臆病な戦闘モードで身構えたネコの記憶が、きみによみがえっているのか。
「ねぇ、手をつないで」
テーブル越しにそっとつないできたきみの左手はほんの少しひんやりとしていた。
「寒いの?」
「もうここは秋だもの。ちょっとね」
きみは右手でカップを持って、入れ立ての温かい珈琲を一口飲んだ。温かそうな香りがぼくまで届く。ぼくは隣のイスにかけておいたジャケットをきみに手渡す。
「今夜の夕食まで体調は維持しないとね。せっかく予約とったし」
きみの顔に笑顔が広がる、楽しみにしているのが素直にぼくに伝わってくる。
「どんなコースがあるの」
「二種類かな。でも、魚も肉も食べられるコースの方を頼んどいた」
きみはひとまわり大きいぼくのジャケットを肩にかけ、空を見上げた。確かに雲は流れるような薄い秋の形に変わっている。
「ありがとう。こうしてずっとそばにいれるといいのにね」
きみはこの言葉の意味をレストランで静かに話し始めた。
よく思い出してみると、あの雨の日に一緒に病院に行って以来、きみは不可解な言葉をよく口にするようになっていた。
「伝えたいことがあるの」
コース料理も終わり、デザートの珈琲を目の前に、きみは落ち着いて、そしてまっすぐにぼくを見つめた。
「いつかって誰にもわからないけど、そろそろかなって気がするの。少しずつ辛くなってきているのは事実だから」
からみつく寂しさ、それはぼくの予想をはるかに越え、ぼくの心を冷たく締めつけた。
「わたし、今はあなたに頼ります」
その言葉にぼくは自分を戒めた。きみは気丈に振る舞おうとしているのに、ぼくは自分の弱さを感じている。そんな自分を戒めた。
「ぼくに任せていいよ。寄りかかっていいからね」
「うん、でもね。いつかはわたしを頼ってね。それが忘れないってことだから。いなくなってもたまには頼りにしてね。それってとってもうれしいことだから」
そこにはぼくよりもずっとずっと大人のきみがいた。泣き崩れてもいいくらいの怖さをぐっと噛みしめているきみがいた。
「あなたがそんな顔しちゃだめでしょ」
すでにまた弱くなりそうなぼくを、きみが作り笑いで支えようとする。
「立場が逆っぽいね」
「笑って。あなたの笑顔がわたしの勇気になるんだから」
きみは少しだけ震える指で、ゆっくりと珈琲カップを手にとった。
真っ暗な道を走るレストランからホテルへの帰りのタクシーの中で、きみがぼくに聞いてくる。
「いい?」
きみの肩が震えている。ぼくはうなずき、きみの肩を支える。
ホテルに着くまでの永遠とも思える数十分の時間の中で、きみのむせび泣きは、ぼくに自分の無力さを、そしてぼくのきみへの強い思いをも再認識させた。
タクシーを降りたぼくらふたりを満月の柔らかい明かりが包む。
「化粧、変じゃない?」
「誰ももとの顔を知らないから、大丈夫だよ」
ぼくは涙が乾ききっていないきみの頬にキスをした。ぼくの首に両手を回すきみに少しだけ笑顔が戻っている、そんな気がした。
『寝息』
森の静けさの中に早起き鳥たちのさえずりが聞こえる。
ぼくはホテルの部屋のカーテンを半分開け、森へと続く裏庭を眺める。そこはまだ薄い朝靄が残っていた。少しずつ緑の色を増してきている木々からは朝露がぽつり、またひとつぽつりと庭の芝生に落ちる。長い夜が明け、今日が始まろうとしている。
でも、きみはまだ目覚めない。
耳をすますとエアコンのかすかな音だけが聞こえてくる。そして、向かいの部屋だろう、早朝の散歩に出ていく老夫婦のまわりを気遣うような静かな話し声が聞こえる。会話の内容までは聞き取れないそう本当に静かな声、老夫婦の声であることだけはなんとなく感じる。昨夜遅くにタクシーで戻ったときに、廊下で視線が合い軽く会釈をした老夫婦だろう。あのとき彼らはぼくらの真向かいのドアへ消えて行った。
部屋の生活音、廊下の会話はぼくの耳に届くのに、この窓側に立つぼくにはきみの寝息は聞こえない。
「明日の朝、散歩に行こうよ」
昨夜、きみは眠りに落ちながら、ゆっくりぼくにそう言った。
「今日は疲れたんだね、いいよ、先にゆっくりおやすみ」
すでに半分眠りに落ちているきみの耳元でささやいてみる。
「きみが目を覚ました時間で考えよう、ね」
「うん、でも」
「でも、なに」
「うん、朝になったら、ちゃんと起こしてね」
ぼくは眠りに落ちていくそんなきみの髪に軽く触れてみた。きみの存在を感じさせないほど柔らかい髪の手触りだった。
小鳥のさえずり、エアコンの音、そして老夫婦の声は次第に遠ざかる。ふたりは朝露の残るホテル裏の散歩路に足を運ぶのだろう。仲良く手をつないでゆっくり歩く老夫婦の姿が想像できた。
もう一度、きみの寝顔に顔を寄せてみる。色白のきみの寝顔の口もとに、ほんの少しだけ微笑みが見て取れる。こんなのをやさしい寝顔とでもいうのだろう、きみの寝顔を見ているとぼくの方まで幸せな気分に包まれる。何も心配ごともなく、裏山をかけまわっていた幼少時代、きみの寝顔はあの頃のぼくを思い出させる。
ぼくはきみの髪に手を伸ばし、そのまま頬に触れてみる。少しひんやりとしている。きみの寝息を聞こうと耳をそばだててみる。
でも、ぼくの耳には、エアコンの音しか聞こえてこない。
きみのやさしい笑顔はそのままに、きみの寝息はぼくにはもう聞こえない。
『今朝の夢』
写真を撮っている夢を見た。
「カメラを構えると少年がファインダーの枠の外に見えるんだけど」
「今も見える?」
「いや」
「まだなんだ」
ぼくはしばらくの間、何枚も写真を撮っていた。
「あれ?」
「どうしたの」
少年がファインダーの枠内にいる。ファインダーを通して見える少年が、通さないと見えない。いろんな構図でとってもファインダーを通すと中央に少年が見える。でも、なんの違和感もない。
「どんな少年?」
「んー」
「あんな少年?」
きみが指差すその先で少年はぽつんと立っていた。そして次にぼくが撮ろうと思っている風景の真ん中にすたすたと歩いていった。
「うん、あの少年だ」
「ちゃんと見えるようになったんだ。よかったね」
そこで目が覚めた。
なんの後味もない、なんとなくの夢だった。
ただ、夢の中にきみはいて、ぼくと言葉を交わしてくれた。ぼくは無造作にテーブルに置いているカメラを手に取ると、きみの写真にレンズを向けてみる。そこには夢の中と同じ笑顔のきみがいた。
『Cat in a Bag』
今、東京のぼくの部屋には、きみの残していった真っ赤なバッグと真っ赤なスニーカー、そして軽井沢で撮ったふたりの写真が残っている。
「いつもそばにいれるわけじゃないから」
きみはそう言ってたくさんの写真をぼくに撮らせた。でき上がった写真をよく見ると、きみの身の回りには必ず赤い色があった。バッグやスニーカーだけじゃなく、Tシャツ、カーディガン、サングラス、マニキュア、等々。
そして、きみが残した赤いバッグには一通の手紙が入っていた。その手紙にもきみからとわかるように真っ赤なキスマークがついている。こんな唇だったっけ、ぼくはつい苦笑する。
「わたしたちが知りあった日はいつでしょう。わたしがいなくなって初めてのその日は家にいましょうね」
今にもきみがここに現れる、そんな錯覚さえ起こさせるような語り口の手紙、そして今日がその日、ぼくらの知りあった日。きみはこの手紙で何を伝えようとしているんだろう。ぼくはその答えに気づこうと朝から赤いバッグとスニーカーを出窓の桟に置き、じっと見つめ続けている。
「お届け物です」
お昼を少し回ったくらいに、インターフォンが鳴った。インターフォンのその言葉にドアを開けると、お兄さんが小さなケージを持ってドアの前に立っていた。
「気をつけてください」
ぼくはケージの角をちょっとドアにぶつけた。その拍子にケージの小さな扉がことんと開き、小さな茶色の塊が部屋の奥に駆け込んでいった。
「先月からご予約の小猫です。ご予約されたのはこの方ですね。受け取りのサインいただけますか」
お兄さんは小猫を目で追いながら、にこやかに受領書をぼくに差し出す。そこにはきみの名前が書かれていた。
「メッセージも預かっています」
空のケージと封筒を受け取り、リビングに戻ると、窓側に並べた赤いバッグとスニーカーの間にその茶色い子はちょこんとすわっていた。首には革の首輪をしている。もちろん色は赤。
−いろんな小猫をね、考えたの。わたしはどんな小猫かなって。どう、普通っぽくてかわいいでしょ。きっとあなたも気に入ると思うの。
−この子はきみってことかい。じゃあ、新しい彼女ができたらどうするんだ。
−大丈夫、その彼女さんにも次の彼女さんにも気に入られるようにふるまうから。
−おいおい、この先、ぼくは何人の彼女と付き合うんだい。
−何人でもいいのよ。きっとあなたはこの小猫を誰からプレゼントされたか忘れるから。
−そんな。
−うぅん、そうなってほしいの。でもね、困ったときにはこの子が助けてくれるからね。頼っていいよ。
手紙を通してのいないはずのきみとの会話。いつの間に茶色のこの子はぼくの足下で丸くなっている。
「きっとこの子は明日の朝、ぼくの鼻の頭をなめるんだろうな」
ゆっくりとぼくはその子を抱きあげた。
完